フレディ・マーキュリー


Name
フレディ・マーキュリー
本名
ファルーク・バルサラ
生年月日
1946年9月5日 - 1991年11月24日
出身地
当時イギリス領だった、タンザニアのザンジバル島のストーン・タウンに、パールシー(10世紀頃、ゾロアスター教からイスラム教への改宗を拒否した民族の末裔)の両親の間に生まれた。
@
5歳の頃からピアノを習っていた。イギリス政府のために働く父の仕事上の理由でインドに移り住み、ボンベイ郊外の全寮制の高等学校に通い育った。いわゆる日本で言うところの帰国子女である。その頃から数々のロックバンドを経験し、ピアノとボーカルを担当。
A
一旦ザンジバルに戻った後、1964年に起きた内乱が元で家族揃って渡英。イーリング・アートカレッジに進学し、グラフィック・デザインを学ぶ。 クイーンに参加の当初からしばらくは、同じくメンバーのロジャー・テイラーと、ケンジントン・マーケットで古着屋を経営。 クイーンのデビュー直前、ラリー・ルレックスという名義でソロシングルを発売している。

B
クイーンの日本での人気を決定付けることになった雑誌『ミュージック・ライフ』の人気投票では、1975年度の10位を皮切りに1976年度から3年連続で1位に輝き、1980年度にはキーボード・プレイヤーとして1位に、1981年度にはボーカリストとして再び1位に返り咲いている。


C
親日バンドとされるクイーンのメンバー中でも最も親日家で、来日公演時以外にも1986年秋にお忍びで来日して骨董品などを買い求めて行った。伊万里焼コレクターでもあった。新宿二丁目には生前行き着けのバーがあったという。来日公演時のMCの半分は日本語だった。ロンドンの自宅には、日本庭園がある。アルバム『バルセロナ』の「La Japonaise」では歌詞の殆どは日本語だった。
D
80年代半ば、この頃からメディアにはHIVに感染しているのではないか、という憶測が頻繁に飛び交うようになったが、後述の永眠直前まで公式には否定し続けていた。頬にも髭を伸ばすようになったが、これは合併症のひとつであるカポジ肉腫を隠すためともいわれている(ただし、イニュエンドウを発表する頃には口髭まですべて剃っていた)。1990年から1991年には交流のあった人物がエイズにより他界。
E
1991年11月23日、かねてより噂になっていたHIV感染を公表。翌24日、HIV感染合併症のひとつであるニューモシスチス肺炎(カリニ肺炎)により死去。45歳という若さだった。 このため、1987年4月にかれが敬愛していたオペラ歌手、モンセラート・カバリェと録音し、1992年にバルセロナオリンピックの開会式にて2人で歌うことになっていたバルセロナは、ホセ・カレーラスが代役を務めた。

F
死後、遺言によりクイーンでもっとも売れた曲「ボヘミアン・ラプソディ」の印税をエイズ基金「テレンス・ヒギンズ・トラスト」に寄付。それを受けて再発されたシングルCDはイギリス史上初の同一曲2度の1位を獲得した。

フレディの遺言により、遺体は遺族により火葬され散骨された。その場所は明らかにされていないが、一説によれば、彼の自宅の庭に埋められているともされている。


G
残されたクイーンのメンバーが中心となり1992年4月20日、イギリス、ロンドンのウェンブリー・スタジアムでフレディ・マーキュリー追悼コンサートがおこなわれた。


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