忌日

2020年3月25日(水)
【■1975年 ファイサル】
■1975年 ファイサル

ファイサル・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール・サウード 1906年生まれは、第3代サウジアラビア国王である。

ファイサルは、初代国王アブドゥルアズィーズ・イブン=サウードの4番目の息子として、リヤドで生まれた。母はムハンマド・イブン=アブドゥルワッハーブの子孫。 1925年に、軍隊を指揮してヒジャーズ王国侵攻で決定的勝利を得、翌年ヒジャーズの知事に就任。サウジアラビア王国が正式に建国された後、1932年に外務大臣に就任した。

パレスチナを国連が分割した後に、アブドゥルアズィーズ国王にアメリカとの国交断絶を呼びかけたが却下された。兄サウード国王の健康が衰えたとき、1964年3月4日に摂政に任命された。同年11月2日に即位した。

即位後は女性が教育を受けることを許可し女学校を設立したり、1965年からテレビ放送を開始するなど近代化改革を導入したが、これらの改革は多くのサウジアラビア人の反対に遭った。 1966年に甥にあたるハーリド王子が仲間を引き連れてテレビ放送を止めさせるためにテレビ局を襲撃するという事件が発生すると、保安部隊に追い詰められてテレビ塔に登ったハーリド王子の射殺命令を出した。

1973年、ファイサル国王はサウジアラビアの武力を増加させる計画を開始した。 10月17日に価格を4倍にして、世界市場からサウジアラビアの石油を引っ込めた。この結果、世界的な石油危機が発生した。1974年に彼はタイム誌のマン・オブ・ザ・イヤーに決まった。

1975年3月25日に、ファイサル国王は自分の甥ファイサル・ビン・ムサーイド王子によって撃ち殺された。享年69。ムサーイド王子は国王に会うのを待っていたクウェートの代表団と共にいた。 ファイサル国王が彼らに挨拶するために前屈みになったとき、王子はピストルを抜き、3回ファイサル国王の顔面を撃った。攻撃直後にムサーイド王子は捕らえられ、精神疾患だったと公式に発表された。彼は後に大逆罪で有罪を宣告され、1975年6月にリヤドの公共広場で首をはねられた。

ムサーイド王子は、1965年に保安部隊との衝突で死んだ兄のハーリド王子のかたきを討ちたがっていたと推測された。いくつか陰謀説があったが、調査によってムサーイド王子の単独行動だと断定された。ファイサル国王の後継者には、弟のハーリドが引き継いだ。


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