忌日

2020年12月11日(金)
【■1949年 堀尾文人】
■1949年 堀尾文人

堀尾文人・1907年3月15日生まれは、プロ野球選手である。

本名:ジェームズ・フミオ・ホリオ。アメリカ国籍の日系二世。1934年の「大日本東京野球倶楽部」創立メンバーの一人で、日本プロ野球の外国人選手(外国籍選手)第1号。スイッチヒッター第1号。またアメリカで日系人プロ選手第一号を目指した選手とされる。

アメリカ合衆国ハワイ州のマウイ島生まれ。両親とも広島出身の日系二世。3歳で帰国し9歳まで広島市の父親の実家で育つ。マウイ高校中退。1920年代のハワイは非常に野球が盛んであったが、堀尾は特別野球がうまく、少年時代から目標はアメリカで「日系人プロ野球選手第一号となる」ことであった。1928年、両親がプランテーション労働に見切りをつけて広島に引き揚げるが、堀尾は単身でアメリカ本土に渡り、ロスアンゼルスでトラック運転手などをしながら日系人野球チームで野球を続ける。

1931年、大阪毎日新聞記者・小野三千麿らの尽力により所属していた日系人チーム「LA日本」の一員として帰国。若林忠志らのいた法政大学などと対戦した。1934年、ネブラスカ・ステート・リーグ(Dクラス)に所属するサウスダコタ州スーフォールズ市のマイナーリーグ「カナリーズ」に入団。一年間全試合出場を果たすが退団を申し出て、当時シカゴ・ホワイトソックスに所属していたアル・シモンズを介して、2度目の日米野球で日本遠征を行うMLB選抜チームと対戦する全日本チーム入りを画策、大リーグ選手との対戦を望んだ。しかしシモンズが無関係と分かり日本に帰国。立ち寄ったハワイで田中義雄に誘いが来たことを知り(田中は辞退)全日本チームの監督・三宅大輔に手紙を送る。しかし返事がないので日本に戻りテストを受け合格。全日本チームの加入とそれに続いて結成予定のプロチーム「大日本東京野球倶楽部」への採用がその場で決まった。唯一人の外地出身者として全日本チーム入り。巨人軍初代背番号4。

同年11月、ベーブ・ルースやルー・ゲーリッグらを擁するMLB選抜チームと対戦する全日本の六大学出身の強打者を押しのけ四番に座る。しかしプレッシャーからか不振に陥りスタメン落ちし惨惨たる成績に終わる。有名な沢村栄治の快投試合では6回から出場、送りバント1。グラウンドでは振るわなかったが、唯一英語が話せたため通訳を買って出て両チームの選手の交流に一役買った。両チームの選手は同じ列車で移動し同じ宿に宿泊したという。

翌1935年のアメリカ遠征では、サンフランシスコ・ミッションズ(ミッション・レッズ)との第二戦、3番を打ちライトフェンスを軽々と飛び越えるスリーランホームランを放ち、初戦に完封負けを喫して非力という烙印を押されていた日本のベースボールプレーヤーのイメージを覆した。また日本のプロ野球チームが、アメリカのプロ野球チームに対して挙げた初勝利に大きく貢献した。その後も強打を発揮しチーム最多のホームランを放ったとされる。遠征終了後、サクラメント・セネターズ(AAクラス)と契約しアメリカに残留。この遠征で最も活躍したのは沢村栄治と田部武雄であったが、当時は日本からの移民の門戸は閉ざされており、日本国籍の選手がアメリカでプレーすることは不可能だった。

アメリカ遠征でのハードスケジュールで足を痛め、セネターズ時代はあまり活躍出来なかったが、堀尾は日系人ただ一人のプロ野球選手として日系人に人気があったという。翌1936年、シアトル・インディアンズに移籍。同年、東京巨人軍と改名し前年に続いてアメリカ遠征を行った巨人軍と今度は敵チームとして対戦した。しかし試合終了後、カナダ・バンクーバーのチーム移籍を言い渡される。29歳でのマイナーリーグのファーム行きに大リーグ入りの夢はあきらめ、当時阪急軍の監督に就任していた三宅大輔に誘われ1936年5月、創設間もない阪急軍に入団。阪急軍初代背番号23。

四、五番を打ち主力選手として活躍、三拍子揃った外野手(センター)として鳴らし西村正夫(または山下好一)、山下実と共に"百萬弗外野陣"とも称された。堀尾を中心とした阪急外野陣は、初期のプロ野球随一の均整のとれた強打線ともいわれた。肩幅広く長身、顎ヒゲ跡が濃く、ブスッとして喜怒哀楽に無感覚、快足のために反って目立たぬ攻守、いつ外野席に叩き込むか分からぬ不敵な面構えに、人気は殆どなかったといわれる。細身ながら草創期の野手では最も背が高かったといわれ、沢村栄治が「ジミーさん死んだら手の皮をくださいね、グローブ作るんだ」と冗談を言ったほど手の平からして大きかった。怪力で片手で選手のベルトをつかむと相手を自分の目の高さよりも高く持ち上げたという逸話が残る。通算打率.236は、いかに低打率の時代とはいえ低いが、日本式の当てにいくバッティングではなく、当時の日本では異端とされた振り切る打法だったためで、その腕っぷしからたまに放たれる打球はロケット弾となって飛んだといわれる。1937年10月6日、対金鯱軍戦で打ったホームランは、戦前の後楽園球場での2本の場外ホームランの1本。この大ホームランは古いファンの語り草だったという。1938年8月29日、同じく後楽園球場の対ライオン戦で、菊矢吉男から放ったホームランは、センターオーバーのホームラン第1号ともいわれる。また俊足選手で1936年秋に開催された第二回全日本野球選手権大会の対名古屋軍で、史上唯一の3イニング連続3打席連続三塁打を記録している。打撃に比べ守備は洗練されていて戦前のセンターでは一番巧かったという声もある。この他、アメリカのプロ野球では当たり前だった牛骨を使ったバットの手入れ等、野球用具の大切さを説いた。当時の野球選手は試合にバットを1本しか持参しない選手が多く、バットを折った選手が「ちょっと貸してくれ」と言おうものなら「手で打て!」と怒鳴り飛ばした。堀尾は30本以上バットを所有していたという。英語が話せる反面、日本語がたどたどしく、六大学出のスター選手の多かった阪急では、チームメイトと最後まで溶け込めなかったといわれる。

1939年、三宅監督の退任で自身も退団し同じ日系の若林忠志に誘われ大阪タイガースに移籍。タイガース初代背番号31。当時阪神は阪急と敵対関係にあったのでこの移籍は物議を醸した。元々あまり無かった人気をさらになくしたといわれ、満場の罵声を浴びせられていたといわれる。ここでもレギュラーとして活躍、山口政信入営の穴を埋めた。阪神タイガース第12代四番打者でもある。当時としては珍しいスイッチヒッターであったが、阪急入団以降は左ではほとんど打たなかったという。ただし時に左で長打を放つこともあったという証言もある。日米間の関係が緊迫した1941年6月、アメリカ政府の召喚命令により、阪神を退団してハワイに帰国した。ずっと日本にいたら必ず本塁打王争いに絡んでいたろうといわれる。

帰国後もハワイリーグでプレーを続けたが1945年、39歳でユニフォームを脱いだ。 1949年骨ガンにより死去。享年42。


[コメントする]
[コメント(1)][更新通知]

<<重要なお知らせ>>

@peps!・Chip!!をご利用頂き、ありがとうございます。
@peps!・Chip!!は、2024年5月末をもってサービスを終了させていただきます。
詳しくは
@peps!サービス終了のお知らせChip!!サービス終了のお知らせ
をご確認ください。




w友達に教えるw
[ホムペ作成][新着記事]
[編集]

無料ホームページ作成は@peps!
++新着日記++