特別攻撃隊


 特別攻撃隊(とくべつこうげきたい)とは、太平洋戦争末期に日本軍が編成した、生還の可能性の無い(主に航空機による)連合国軍艦艇に対する体当たり攻撃を実行するための部隊である。特攻隊(とっこうたい)と略す場合が多い。外国語においても「Tokko」(トッコウ)「Kamikaze」(カミカゼ)とは戦死を前提とした体当たり・自爆攻撃として通じている。


 特攻とは、爆弾を搭載した軍用機や、爆薬を載せた高速艇等の各種兵器が、敵艦船等の目標に乗組員ごと体当たりする戦法である。太平洋戦争末期の日本で、陸海軍あげての大規模な作戦として実施されたが、乗員が生還する可能性は皆無に等しく、「突入」すなわち「死」を意味すると言えた。

 背景には、太平洋戦争末期における日本軍の航空機の数的不利と航空機燃料の品質悪化や航空機の生産過程での品質の低下、近接信管(VTヒューズ)やF6F艦載機に代表されるアメリカ軍やイギリス軍の対空迎撃能力の飛躍的向上により、日本軍の航空戦力が劣勢になって、通常の航空攻撃では充分な戦果を敵艦隊から挙げにくくなったことがある。さらに台湾沖航空戦の結果、フィリピンでの稼動航空機数が激減し、少数の兵力で有効な戦果を挙げるために最も確率の高い方法として計画的に実行されたのが始まりである。

 レイテ沖海戦より始まった特攻であるが、「一機一隻撃沈」という事実は日米双方に衝撃を与え、硫黄島やウルシー・サイパンへの作戦を経て、沖縄戦において最高潮に達した。沖縄周辺に侵攻したアメリカ海軍やイギリス海軍、オーストラリア海軍を中心とした連合国軍の艦隊に対し、日本軍は菊水作戦を発動して特攻隊を編成し、九州・台湾から航空特攻を行った。これと連動して戦艦大和以下の艦艇による“水上特攻”や回天、震洋などの体当たり艇など、各種特攻兵器が大量に投入された。

 結果として特攻は護衛空母3隻を撃沈、複数の正規空母を終戦まで戦列から去らせるなど相応の戦果を挙げ、戦後の米戦略爆撃調査団はその有効性をかなり高く評価している。フィリピンで特攻による損害を強いられた連合国軍は、沖縄戦の頃にはピケット艦や空母艦載機編成の改編等様々な対策を採っており、特攻の有効性は大きく減じられることとなった。日本側はこの後も当初より問題視されていた威力不足の改善を図る等の対策を採り、想定される本土決戦に向けて大量の特攻戦備を整えている段階で終戦を迎えた。

 特攻隊は、海軍・陸軍とも航空機や船舶など多くの部隊が編成されているが、最も著名なものが海軍の神風特別攻撃隊で、これは海軍航空機からなる特別攻撃隊である。名称の由来は元寇を追い払ったと言われる「神風」から、本来の読みは「しんぷうとくべつこうげきたい」であるが、初出撃を報じる「日本ニュース」第232号ナレーションで「かみかぜとくべつこうげきたい」と読んで以降、「かみかぜ〜」が定着した。あまりにも著名であるために、戦後には特別攻撃隊の別称として「カミカゼ」が使われる場合も多い。

 目標艦艇に突入するためには、まずアメリカ軍やイギリス軍をはじめとする連合国軍の迎撃隊の防空網を掻い潜らなければならず、その次には目標艦艇とその僚艦による対空砲火の弾幕を潜らなければならない。こうした防空網を掻い潜るためには、本来なら最新鋭の機体に訓練を積んだ操縦者を乗せ、敵迎撃機を防ぐ戦闘機を含む大部隊が必要であり、さらに無事雷爆撃を成功させるためには十分な訓練による技量が必要であった。しかも戦争後半には、VT信管装備の砲弾による対空射撃やレーダー管制による迎撃、優秀な新型戦闘機の投入等が大きな難関となっていった。その為、戦果を挙げるにはその外縁に位置する哨戒用の艦艇、すなわち駆逐艦を狙わざるを得なくなった。こうした事情から、日本軍の攻撃対象は本来狙うべき正規空母や戦艦などの主力艦艇から、駆逐艦や護衛空母などの補助艦艇に移行していった。実際、沖縄戦で特攻機によってアメリカ軍が受けた被害は、輸送船や駆逐艦に集中している。

 特攻隊員に指名されるも生還したという例も多い(沖縄戦時の帰投例は全出撃の半数にも上る)。機材故障、体調不良、天候不良、理由を付け出撃を回避、突入直前に撃墜され捕虜となる、出撃日を指定されるもその直前に終戦、等々理由は様々である。戦中の場合、再度特攻の任を受け出撃するケース、特攻の任に耐えずと判断され休養に出されたケース、部隊から排除されたケースもあった。

 戦後、特攻隊員の大多数は一様に心に傷を負いながらも戦後復興・経済発展の為に日本を支え、戦死者の慰霊顕彰にも尽力している。しかし一部の者は社会や価値観の変貌に付いていけず、また彼らを「特攻くずれ」と称して蔑む風潮もあり、敗残兵として冷遇を受け、そのため自暴自棄になり反社会的な行為に走る者も出現した。また特攻と無関係の者が自らを元特攻隊員と偽り、犯罪を行うこともあった。

 「特攻では片道の燃料しか積んでいなかった」と言われることもあるが、実際はレーダーを避けるための低空飛行と爆弾の積載のために、満タンの燃料でも足りなかったこともあるくらいで、出来る限り多くの燃料が積み込まれた。整備員達は「片道燃料などという酷いことが出来るか」と命令を無視して満タンにしたという話も聞かれる。しかし、日本本土から沖縄周辺海域までの距離は、鹿屋からでも約650km。レーダーピケット駆逐艦や戦闘機による戦闘空中哨戒(CAP)を避ける意味からも、迂回出来るならば迂回して侵入方向を変更するのが成功率を上げるためにも望ましく、また先行して敵情偵察や目標の位置通報を行うはずの大艇や陸攻もしばしば迎撃・撃墜され、特攻機自らが目標を索敵して攻撃を行わざるを得ない状況もあり、燃料は「まず敵にまみえる為に」必要とされた。ベテラン搭乗員の多くが戦死し、訓練のための燃料も機体も少なくなっていたために搭乗員の技量の低下が激しい当時、航法を誤ればあっという間に燃料をムダに消費してしまう訳で、日本側がわざわざ焼夷効果を狙って燃料を増載していた、「特攻だから片道燃料としていた」という話には疑問が出ている。

 特攻隊員たちが憂いなく出発できるように、出撃機には可能な限りの整備がなされたとも言われるが、現実問題として日本の工業生産力はすでに限界に達しており、航空機の品質管理が十分ではなかった事や、代替部品の欠乏による不完全な整備から、特攻機の機体不調による帰投は珍しいことではなかった。

 戦時中は「一億特攻の先駆け」、また特攻戦死は「散華」と肯定的に宣伝され、想定されていた本土決戦では全国民が範となすように求められた。特攻の戦果は軍国青少年を狂喜させたが、その一方、現場の声としては懐疑的・否定的な意見が挙げられていた部分もある。

 戦後の評価は一転し、左派、保守派も総じて特攻作戦は否定的になった。しかし、作戦自体には否定的意見でも、「特攻隊員も戦争の犠牲者」との意見は左派でも強かった。これは特攻隊員の多くが学徒兵などインテリ層で、自己の死の意味に苦悩する姿にシンパシーを感じる者が多かったからと見られる。これに対し、右翼、暴力団、暴走族を中心に「大和魂の権化」、「日本人の鑑」、「崇高な自己犠牲の体現者」と特攻作戦を含めて肯定する評価もあり、彼らは特攻隊にあやかった団体名称を好んだり、自らの服装を特攻隊に結びつけたりし、菊水のマークを意匠的に用いている。また、特攻隊出身者の多くは自嘲的な評価をした。

 前近代的な狂信的な行動であるとして欧米諸国、特にアメリカでは、特攻隊の攻撃方法は“クレイジー"と評された。また大日本帝国が単なる軍国主義国家というだけでなく、ナチスドイツ以上の悪しき狂信的集団であるという見方、さらには日本人全般への差別と蔑視をも確定した。この評価の根底には、永年に渡って養成してきた貴重な人命を無駄に消耗させ、しかも数少ない貴重な資源や兵器を消耗させるだけであったことや、戦争指導者達が先の見通しを持たず、ただ流れに任せて無責任に命令を発していたことが多かったということが大きく作用している。また、特攻隊員に対しても「狂信的な国家主義に洗脳された」という、どちらかといえば否定的な見方が一般的であった。これは戦後の日本の民主化政策に大きく影響した。一方、一部の反米的なイスラム諸国では日本人は勇敢であるとの意見も存在する。





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