1987年9月14日午後4時50分ごろ、群馬県高崎市の萩原光則さんの長男・功明ちゃん(5)が行方不明になった。約2時間後、2000万円を要求する脅迫電話が入る。16日までに合計4回の電話があり、犯人の要求額は1000万円に下がったが、受け渡しについての指示がなく16日、功明ちゃんは自宅から5キロ地点の川で遺体で見つかった。県警は26万人の捜査員を動員し捜査に当たったが動機面で絞り込めず、02年9月14日、戦後の誘拐殺人事件としては唯一、公訴時効を迎えた。 【電話のやりとり】 9月14日午後2時30頃、功明ちゃんは迎えに来た光則さんと一緒に幼稚園を後にして、一旦帰宅している。家の前には地神社があり、普段からここを遊び場にしていた功明ちゃんはすぐに「(神社の)滑り台に遊びに行く」と1人で家を出ていった。 その10分後、通りかかった祖母が功明ちゃんの姿が見えないというので、家族や親類らが探し回ったが、とうとう見つからず、高崎署に捜索願を出したのは午後6時半頃だった。 その直後の午後6時42分頃、萩原家の電話が入る。 「子どもを預かっている。2000万ぐらいならあると子どもが言っている。2000万円よこせ、よこさなければ殺す」 男の声だった。それも若くはなく中年らしい声だったという。 男は「警察へ連絡したのか」と尋ねたため、光則さんが捜索願を出したことを伝えると、「届けたことを取り消して、2000万持って来い」と言った。 午後7時47分、2度目の電話。光則さんの弟で、現職警察官の正規さんが電話に出ている。 男「おめえは誰だ」 正規さん「弟だ」 男「子どもはどうした、子どもはどうした。・・・・2000万円よこせ、2000万円よこせ」 正規さん「おじいさんが寝こんでいるし、おばあさんは年をとってるし、そんな金ねえよ。第一、金融期間は休みだろ!」 男は翌日が「敬老の日」で休日だということを知らなかった。 午後8時3分、3度目の電話。この時、初めて功明ちゃんが電話に出た。 功明ちゃん「お父さん」 光則さん「うん、お父さんだよ。元気?」 功明ちゃん「元気」 光則さん「どうしてるの」 功明ちゃん「これから帰るよ」 光則さん「もしもし、どこにいるの。どこからかけてるの。おうち?どこのお うち?」 功明ちゃん「おまわりさんは一緒」 光則さん「おまわりさんかい。うーん、よし君、よし君・・・」 ここで電話は切れた。 この後、翌朝までベルを1〜3度鳴らして切るという電話が13回続いた。 16日午前7時50分頃、4回目の電話。 光則さん「はい、もしもし」 男「今日の夕方までに1000万円用意しろ」 光則さん「もしもし、わかりません。もう1度お願いします」 男「また電話する」 しかし、男からの連絡はもうなかった。荻原家では犯人の指示通りに1000万円の大金をなんとか集めた。 しかし、最悪の結末を迎える。 同日午後、自宅から5km離れた寺沢川で遺体が発見されたのだ。 17日、功明ちゃんの遺体は群馬大学医学部法医学教室で解剖され、首を絞めた跡や、薬物を飲まされた跡がなかったため、生きたまま橋から投げ落とされたものと見られ、死因は砂や水を飲み込んだ窒息死。先に書いたように顎は骨折しており、胃の中はからっぽで食事を与えられた形跡はなかった。死亡推定時刻は15日午前10時以前と見られ、殺害してから身代金を要求する電話をかけていた。 さらに同日、遺体発見現場から1.5mほど離れた市道沿いの斜面で功明ちゃんの「パーマン」の絵が描かれたサンダルが発見された。もう片方は谷津橋近くで発見されている。 また19日には、2km離れた藪の中で功明ちゃんの着ていた半袖シャツとパンツを、さらにその2km先で半ズボンが発見された。 これは犯人が功明ちゃんを投げ落とした後、八千代橋方面に向かいながら車から投げ捨てていたことを意味していた。 <<重要なお知らせ>>@peps!・Chip!!をご利用頂き、ありがとうございます。
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